体調面の事情で泣く泣くお休みしていたジム通いを、約1年半ぶりに再開した。
辞める以前には3年ほど通っていて、当時は高強度のトレーニングをバリバリ楽しんでいた。ジムはもはやサードプレイスとしても大切な居場所になっていたので、復帰の目処が立たない状況に陥っても未練たらたらで休会を引き伸ばし、メンタルブレイクの末に、長期の療養が必要な現実をようやく受け入れて退会したのだった。
離脱期間が長すぎてもうすっかりアウェイになっていたりして、と心配をしていたが、古株のスタッフさんも多く勤続されていて杞憂に終わった。再会を喜び合い、色々端折った入会説明を受けて、あっさりと「いつものメニュー」に取り掛かる。
リハビリで解禁されていない動作も多く、以前やっていたような高強度のトレーニングはまだ難しい。できることから徐々に、という形だけど、それでも身体を動かすのは心地良い。
筋力も心肺機能も落ちてはいるけれど、懸念していたほど酷くはなかった。
次から次へと体調不良に悩まされ、一時期は「もうこの人生で健康な身体を取り戻すことはできないのか?」と本気で思うほどヘロヘロな状態で日常生活もままならない日々が続いたために、自分の身体を全く信用できなくなっていた。
しかし、大抵の心配事は時間が解決してくれるものだ。今は体調も概ね安定しているし、日々の生活やリハビリにより、自分が思っていた以上にちゃんと体力は戻ってきていたらしい。過度におっかなびっくりやる必要もなさそうだ。
ジムでトレーニングすると、身体は疲れるけれど、雑念をザバっと洗い流したように頭の中がすっきりクリアになって、思考体力は回復する。その感覚が気持ちよくて、休日なのをいいことについつい復帰初日から半日使って長居してしまった。
トレーニングを終えたら、せっかく鍛えた分を無駄にしないようにと、疲れた身体が欲する食事をしたくなる。普段の雑な食事ではなく、高タンパク・低脂質のいわゆる筋肉メシ。
良質な食事をするから肌や体調も整って、他の活動をする肉体的・精神的な余力が出てくる。活動量が増えるから、生活の満足度が上がる。自分の時間の使い方に納得できるから、自己肯定感が上がる。自分に自信が持てるから、過度な内向的思考を食い止めて外界に意識を向けられるようになる。こうして良い循環に入る。
そんなことを考えていて、以前読んだ本にあった「オセロのスミとなる習慣」という言葉を思い出した。
同じように習慣化するにしても、他の習慣にまで影響を及ぼすような習慣と、1つの習慣化だけで留まってしまう習慣とがあるのです。
当然ですが、他の習慣にも良い影響を及ぼして、連鎖反応を起こすような習慣化を選び抜きたいところです。
ちょうどオセロでスミを1つ黒くするだけで、それまで真っ白だった盤面をたちまちひっくり返していくような、そんな「スミとなる習慣」を選ぶことが大事なのです。
出典:佐々木正悟『やめられなくなる、小さな習慣』ソーテック社、2018年、 p.51。
私にとっての「オセロのスミとなる習慣」は、間違いなくジムでのトレーニングである。以前ジム通いの習慣化に成功したときに、それはもう確信していた。今回、ジム通いを再開することで、生活がリブートされた感覚がある。
ただ、ジム通いが自分にとって大切な習慣であると知っている一方で、療養での長期離脱で「オセロのスミとなる習慣をやむを得ない理由で維持できなくなったときに、心身に大きな影響が出る」という脆さも実感していた。
この問題への対処について、私は現時点で明確な答えを持っているわけではないが、ある程度効果的だと感じている方策はある。
それは「習慣を構成する要素を細分化」した上で「妥協点を見つける」とか「折り合いをつける」ということである。
あるいは「状況に適応していく」と言ってもいい。習慣を構成する要素を削ぎ落とし、形態をしなやかに変化させて、今の自分にできる行動に落とし込むのだ。
ジム通いの習慣の中で私にとって最も重要な要素だったのは、高強度トレーニングの爽快感ではなく、コミュニティへの帰属感と、体調に応じた適度な強度の運動習慣だったのだろう。
今回、万全の状態での復帰を諦めて、現状の「できるところから徐々に」で復帰したが、それで十分だった。制約を受け入れても、オセロのスミとなる習慣は取り戻せたのだから。
不完全でもいい。復帰して本当によかった。

やはり筋肉、筋肉は全てを解決する