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山の上ホテル滞在記 1

東京の寒さをなめていた。薄手のコートにマフラーなしで過ごせた昨日とは打って変わって、冷たい雨の降る今日は吐く息が白くなる。札幌のきりりと張りつめた寒さとは種類が違う。湿気た肌寒さに手足がじんじんとかじかんで、ボディーブローのように効いてくる。

ドラマで見た神楽坂の甘味処に寄り道したあと、飯田橋から中央線に乗った。御茶ノ水駅へ降り立った頃、時刻は午後二時を回り、図らずもちょうどチェックインの時間になっていた。

御茶ノ水に来るのはかれこれ5年ぶりくらいになる。前回来たときは、北海道で大学生をやっていた。当時ジャズに傾倒していて、見知らぬ土地でも単身でセッションに飛び込んだりと、今考えれば思い切ったことをしていた。友人のツテがあった明治大学のジャズ研の部員とは少し仲良くさせてもらっていて、上京ついでに御茶ノ水の部室でやっていたセッションにお邪魔したことがあった。その後上京したけれど、東京にいた2年間、御茶ノ水を訪れる機会は、結局一度もなかった。決してよく来る土地ではないものの、友人との記憶を伴うからだろう。久々に訪れたこの街には、何か親近感というか、懐かしさのようなものを感じる。

今日の宿は、このあたりの丘の上にあるらしい。地図によると明治大学リバティタワーのすぐそばだ。わかりやすいはずだが、方向音痴がひどすぎて、駅からどちらへ向かえばいいのかわからない。早々に諦めてグーグル先生に従うことにする。

駅からまっすぐ、楽器屋が連なる通りを下っていく。右手には道案内に不可欠なiPhone、左手にはスーツケース。まだ小雨が降っているけど、折りたたんだ傘は、手が塞がって使えないから左手首にぶら下げる。楽器屋の軒先で雨を避けて歩く。

法政大学発祥の地の記念碑を見つけて、都会の大学すごいなあ、なんて思っているうちに、明治大学も見えてきた。と、その手前に雲のような形をした緑色の看板が見えた。「山の上ホテル」。

看板の指す路地へ入ると、上り坂の先に、写真で見たことのある建物を見つけた。迷うことなく一本道を上っていくと、古めかしい入り口にたどり着いた。他に入り口はなさそうだから、ここから入るようだ。

中に入ってみると、すぐに女性の従業員が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか」

はい、と答えるとフロントに案内された。スーツケースを渡すと、雨に当たって濡れてしまった面をきれいに拭いてくれた。宿帳を記入する間、手首にぶら下げた傘を見つけて透明のビニール袋に入れてくれる。

到着早々、矢継ぎ早に細やかな気遣いをしてもらい、いわゆるビジネスホテルとはあまりに違う対応に早くも圧倒されてしまった。おもてなしとはこういうものなのだな、然るべき対価を払えばこんな小娘相手でもこれほどまでに丁寧に、よくしていただけるものなのだな、などと考えていた。そういう扱いをされることにも慣れていないものだから「ありがとうございます」ばかり言って、ぺこぺこしてしまう。

「お部屋にご案内いたします。5階のお部屋でございます」

エレベーターを降りると、大きくて重厚な木の扉が並んでいた。奥の一角が、503号室。ルームキーにはどっしりと大ぶりな、透明アクリルのキーホルダーが付いていて美しい。

アンティーク品のような細い鍵を挿し込んで開いた503号室は、きっちりとベッドメイクされたダブルベッドがどっしりと佇み、古めかしさのある調度品はどれも清潔さと美しさを保っていた。水回りの手入れも行き届いて、控えめなタイルの装飾もかわいらしい。

お茶をお持ちしてもよろしいですか、と訊ねられ、お願いしますと応える。どこまでも気が利く彼女の案内で、すっかり山の上ホテルのファンになり始めていた。

数分後「ルームサービスです」と、まだ不慣れなのか、少し緊張していると思しき若い従業員の女性が、部屋にお茶とお菓子をもってきてくれた。黒髪のボブに薄緑のメイド服のような制服も、ごゆっくりおくつろぎください、をちょっと噛みながらサーブしてくれる姿も、なんだか初々しくて愛おしい。どうもありがとう。

持ってきてくれた湯飲みにはちゃんと蓋がしてあった。全く冷めていない熱々のほうじ茶が冷え切った身体によく沁みる。お茶受けのお菓子は洋風の焼き菓子が2つ。プレーンとチョコだろうか。ナッツが乗っていて美味しそう。いまはあまりお腹が空いていないから、あとで食べることにする。

ところで、薄々感づかれているかもしれないが、この宿は普段わたしのような庶民がぽんとが泊まるような宿ではない。山の上ホテルの宿泊費は1泊2万円前後から。いつもは最安のビジネスホテルやホステルなどの安宿ばかり使うわたしには、分不相応なランクの宿である。

それでも今回泊まってみようという気になったのは、先日気まぐれに書き出してみた「死ぬまでにやりたいことリスト」の序盤に「山の上ホテルに宿泊する」がランクインしてきたからである。

もともとは、Twitterでたまたま見つけた、山の上ホテルのルームキーを模したキーホルダーのお土産が美しいなあと思ったのがきっかけだった。山の上ホテルってどこにあるんだろう、どんなところなんだろう、と調べるうちに、文豪たちの愛した古き良き宿らしいということがわかった。池波正太郎も常宿にしていたという。ここへ篭って、執筆をしたそうだ。

いつか行ってみたいな、なんなら泊まってみたいな、と思って数年。へっぽこながら一応社会人として働く身分になった。また、ここ数年、身内の不幸が相次いだこともあって、人生だとか、健康に生きることだとか、人の死だとかについて考えるにつけ、行きたい場所には行けるなら行けるうちに行かないと、行けなくなってしまうのだ、などと考えるようになっていた。

そうしてふと考えてみると、ずっと憧れだった宿も、泊まれないほどの値段ではなかった。東京まで行ける体力もあれば、ゆっくり滞在できる時間も確保出来る。それならすぐにでも泊まってみようじゃないかと、上京の用事に引っ掛けて一泊だけ、山の上ホテルを予約をしておいたのである。このホテルを心ゆくまで堪能するべく、この日の他のすべての予定をブロックして。

お茶を飲んで部屋で佇みながら、いつもならスマホをいじったりテレビの電源を入れてしまいそうなところだけれど、なぜだか、いまそういう気にはならないのが不思議だ。気が向いたら近場でやっている展示をサクッと見てくるのもいいかなと思っていたけど、やはりこの宿でゆったりとすぎる時間に身を委ねたいという気分がまさってくる。

そんなわけで、いまこの文章を書いている。昨日の疲れも残っているから、今日はゆっくり過ごそう。これから、館内をゆっくり探索して回ろうと思う。

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